12月28日のくの字
 <Sabject:「逃げる」または「負けるが勝ち」>

 前回はキリストの話だったので、今回は釈迦の話をしようかな。手塚治虫先生の描いた「ブッダ」か、水野英子先生の描いた「ブッダと女たち」か、どちらか(どっちもマンガ)に出て来たエピソードです。

 釈迦が悟りを開く前の修行僧達は、苦行を自分に課し、己を滅して初めて悟りを開く事ができると考えていました。釈迦は苦行の果、死にそうになったところを「ミルク粥」で救われました。健康を回復した後で、肉体をいくらいじめても、悟りは開けない。心の縛り(=煩悩)を解き放すことが悟りだと気が付いたのです。そう公言すると、それまで一緒に苦行に明け暮れていた修行僧達は、釈迦の考え方を一斉に非難し、堕落したとか、裏切り者と言って、排斥するようになってしまいました。

 そんなある日、釈迦が散歩をしていると、向こうから排斥派の修行僧がこちらに向かって来るのを見つけました。その時釈迦は、自ら遠回りして相手と出会うことを避けました。同行者が「自分に非がないと信じるなら、なぜ逃げるのか。」と問うと、釈迦は「相手も自分に非があるとは思っていないでしょう。相対して話をすれば、どうしても争う気持ちになる。相手を説き伏せよう、相手に勝とうとすると、心は自分勝手な思いに縛られてしまう。私は自分をそんな不自由な心持ちに落としたくないから、他の道を選ぶのだよ。」と答えたとか・・・

 「平常心を保つ」ということでしょうか? 凡人には「悟りの心」はわからないのですが、確かに自分の価値観と違う人に相対すると、心の中がザラザラした感じになりますよね。たとえ相手に言い勝ったとしても、充足感は味わえないし、むしろ虚無感に覆い尽くされてしまったり、疲労感で一杯になったり、挙げ句に罪悪感を感じてしまうことすらあります。

 社会には価値観の違う人が(当然の事ながら)たくさんいて、いろいろな矛盾がたくさんあって、自分の無力さや、存在の不確かさに釈然としないまま、そんな思い(罪悪感とか虚無感)を持て余していたときに、「逃げてもいいんだ」というのは、スッゴク「新しい」発見でした。

 逃げるって言うと、ただ「嫌なことや、苦手なことから逃げる」みたいになってしまうから、良くない事のように思ってしまうけど、無用な&不毛な争いから逃げるって事なら納得出来るし、それで心穏やかに過ごせるんだったら・・・ウン、逃げるのも悪くない。そう思ったのでした。

 そう言えば「36計、逃げるにしかず」ってことわざもあるよなぁ。「負けるが勝ち」って言うのも「争う」事から「逃げ」て、得を取るって言うことわざだよねぇ。何だ、昔から「逃げる」推進派がたくさんいたんじゃないか、そんなことも思ったのでした。

 逃げることが出来ないってぇ事態もたくさんあるのだけれど、逃げた方がいい時、逃げることが可能な時は、逃げてしまう。これって、かなりいい!と、今でも思っているのですが、どうでしょう?

 

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