12月13日のくの字
 <Sabject:マグダガのマリア>

 クリスマスが近いので、聖書の中の話をしようかなぁ・・・って言っても、ぽーにゃん@はクリスチャンではありません(仏教徒でもアッラーの民でもないけどネ)。

 欧米の戯曲を読むと、さっぱり理解できない!って事が良くあるの。それは、欧米の人々のベースにある宗教とか、神話の知識とかが欠落しているからに違いないと思ったので、聖書やギリシャ神話、ローマ神話なんていうのを(若い頃に)読んでみたわけです。

 で、新約聖書なんだけど、マグダガのマリアって言う話、知ってますか? ちと長くなるけど「あらすじ」を書きますね(うる覚えで、違ってるとこがあるかもしれないけど)。

 キリストが弟子を連れて旅をしている時に、マグダガという町のマリアの家で教えを伝える事になりました。その頃キリストの評判は大層広まっていたので、マリアの家には弟子だけでなく、噂を聞き付けた人々がたくさん集まりました。マリアの姉のマルタは、集った人達にお酒や食事を振舞うのに大忙しなのに、マリアはキリストのそばに座り、じっとキリストを見つめ、話に聞き入り、マルタを手伝おうとしませんでした。腹を立てたマルタはキリストに「私は1人で忙しい思いをしているのだから、妹に私を手伝うように言ってください。妹はあなたを大変尊敬しているから、私の言う事は聞かなくても、あなたの言う事なら従うでしょうから」と訴えました。するとキリストは「人間は自分のしたい事を選ぶ事ができる。あなたは我々に飲食を提供する事を選び、マリアは私の話を聞く事を選んだ。マリアの態度は正しい。私はマリアに『自分の選ばなかった事をするように』と言う事は出来ない。」とマルタを退けたと言う話なんです。

 何でこの話にこだわるかって言うと、その頃の私の生き方はマリア型じゃなくって、マルタ型だったので「なんでや!」とカチンと来たわけです(今でも少なからずマルタ型ですが・・・)きっとマリアの方が可愛げがあって、自分を見つめているもんだから、キリストはマリアを贔屓したに違いない。それを正当化してるだけなんじゃないか?と下衆の勘ぐり迄したもんです。(^◇^;)

 マルタも本心はキリストの話が聞きたかった。でも、自分の家に集った人達をもてなさずにいたら世間になんて言われるか・・・と思ったんでしょうねぇ。それで自分を殺して「お接待」に奮闘した。ところが妹は何もせずにキリストの話を聞いている。「ずるい!」とマルタは思ったに違いありません。

 退けられたマルタは「私はこんなに一生懸命なのに。私はこんなに我慢しているのに。自分は褒められるべきで、妹は叱咤されるべきだ。それなのに何でキリストはマリアの肩を持つのだ?」と、さぞ悔しい、情けない思いをしたんだろうなぁと同情しました。そしてマリアとキリストを「やなかんじ〜、何か怪しい〜」と思ったのでした。(#^.^#)

 つい最近、世間の目や常識(と言う名の偏見)から、少し自分自身を解放出来るようになったと感じた時、改めてこの話を思い出したんですよ。それで、はっとしたんです。私って力一杯マルタだった! 世間体を気にするあまり、見栄を張り、大切な物を見失っていたんだって。

 だからね、まだ、かなりマルタ要素は残っている私だけれど、これからもマルタ要素を剥ぎ取って、「ほど良い自分」になりたいものだと、今は思っているのです・・・って、まるでクリスマスと関係のない話でした。(オイ、オイ!)

 

 

 to Top  to Index  to Next