♪H.MO音を語る♪
ここではこのHPの本題でもある『音』について、今まで独学で学んだ知識そして体験を踏まえて平たく簡潔にお話したいと思います。 興味のない人も気軽に見ていただけたらありがたいです。そんな硬いページじゃないんで^^
その1-『生まれ持った才能』
 あなたは「音楽」と聞いてまず何を思い浮かべるでしょうか? ほとんどの人が自分の好きなアーティストの音楽、CDなんかを思い出すでしょう。僕もそうです。 ジャンルなんかもいっぱいありますし、クラシックからパンクスまで、私たちの耳はいつでも簡単に音楽が入ってくる環境にあります。 ではもう少し幅広く、「音」と聞いたら何を思い出しますか? まあ人それぞれでしょう。 一人一人が全く違う人生を歩き、全く違う経験を積んできたのですから。 そしてその周囲にはいつも「音」があった。泣いている時、笑っている時、眠っている時だって、いつも。 では、現代に生きる僕たちが音に関して現代病に犯されていると聞いたら、何人の人が自覚を持つでしょうか?
 実は僕たちは現代だからこそやむを得ない感覚的障害とでも言いましょうか、そんな状況に身を置いています。
 生まれた時はほとんど目が見えません。 それでも危険を察知するために、音や手触りまたは味覚などであらゆることを判断してきました。 しかし成長し時が経つに連れて、執拗に視覚中心の生活になっていきました。 ごく当たり前のことのようですが、これは個々の性格の問題ではありません。 外部の力に影響され感覚が麻痺し、鈍化しているのです。 その原因は少し時をさかのぼってみると理解できます。
その2-『視覚中心の世界』
 明治以降、日本に大量に西洋の文化が流れ込んできました。 日本人はその美しい絵画や彫刻そして音楽に心奪われ、美的感覚を移行させていきました。 この時こそが今に至る分岐点であり、それまで日本が育んできた大切なものを失っていく始まりでもありました。
 そもそも西洋文化の特色は「細分化」「分析的」「科学的」というような要素を持っていて、視覚は目、見るもの。聴覚は耳、聴くもの。というように五感において全てをカテゴリーに仕分けして、特に聴覚に関して言えば『音楽はコンサートホールで聴くもの』という考え方があり、その考え方は日常で漂っているはずの音に耳を傾けなくなり、本来生まれ持った五感に絞っては言い尽くせないような『情緒』や『雰囲気』への感覚を鈍化させるという短所を持ち合わせていました。 そしてその『情緒』や『雰囲気』こそが、それまで日本が育んできた、他のどの国にも類のない独特の美的感覚でした。 むしろ今の僕らにとっては細分的な考えのほうが当然に思えるのかもしれませんが・・。
 そして、その波にのってより具体的に、よりリアルに認識できる視覚重視の文化になり、敗戦後の欧米化やメディア技術の発達などにより、追い討ちをかけることになります。
その3−『愛でるべき日本の文化』
 そもそもそれまで日本が育んできた美的文化とは、西洋文化とどのように異なっていたのでしょうか。
 西洋文化にある油絵、これにはあらゆる主義がありましたが、それはよりリアルに書くことだったり、書き方としては絵の具を紙や布などの素材にのせていくというものでした。つまり、『絵』は視覚で認識するために描かれていました。 音楽でもやはり同じく、ピアノ等の楽器でドレミを組み合わせ、音楽を聴く目的で奏でられていました。 そして日本。浮世絵や染め物や織物は、そこに描かれている模様や絵だけではなく、その元となる和紙や布の風合い、手触りまで活かして作られています。 そして金閣寺を始めとする歴史的建造物に関しては、庭園や建物自体の外観の美しさ、足音の響きへのこだわり、電気がなく夜はろうそくで過ごすという一見不便な習慣を活かした、瞬く金箔によってほどこされた内装は、まるで闇への恐怖を紛らわすように囁いているかのようです。狂言や歌舞伎なども、独特なあらゆる要素を含んだ伝統文化です。 このようにそのどれもが、一つの感覚では言い表せない雰囲気を持ち合わせています。 そして当時は『虫聴きの会』という習慣があり、闇の中、一見何の変哲もない場所に出向き、鳴り響く虫の音と静寂に酔いながら食事やお酒を楽しんだそうです。 それらに対して主としての感覚を仕分けして感じろというのが無理な話で、その全ての中で微妙なニュアンスを奏でているのです。
その4−『サウンドスケープとマリー・シェーファー』
 そんな最中、救世主が現れます。 カナダの作曲家『マリー・シェーファー』です。彼は、「西洋音楽の枠組からの開放」「視覚中心の西洋近代文明への反省・全身感覚の復権」「騒音公害」等を背景に一つの概念を掲げます。 それが1969年に提示された『サウンドスケープ』(音の景観)という概念です。
 シェーファーは「現代の騒音公害は人々の日常生活の音環境への無関心から生じている。こうした無関心は、西洋近代の視覚中心の考え方や近現代の音楽活動・聴取活動の閉鎖性(コンサートホール、レコード、ウォークマンなど)に由来している。」と考え、「今日すべての音は音楽の包括的な領域内にあってとぎれのない可能性の場を形成している。新しいオーケストラ、鳴り響く森羅万象に耳を開くべきだ」という考え方を、あらゆる研究や団体活動、イベントによって広めていきました。 この思想は日本においても、『鳥越けい子』を始めとする数多くの人々に衝撃を与え、今尚広がり続けています。
その5−『訓練』
 と、ここまでとても大ざっぱに述べたものの、本来はこのような小さなページで、ましてや僕の小さな頭で語り尽くせるモノではないんです。 しかしながら僕らがこれからより自然に、見落としがちな音と上手に付き合っていくにはどうすればよいのでしょうか。
 シェーファーの著書に『サウンドエデュケーション』というものがあるのですが、それは読んで字のごとく「音の教育」です。 そこには鈍化してしまった感覚を取り戻し、より豊かな生活を送るための訓練法や教育法が記載されています。いわゆるテキストブックです。その一部を紹介したいと思います。
 まず始めは「音があるという認識」を持つために適当な場所に出向き、紙とペンを用いて、そこで耳に入る音をとにかく全て書き出していきます。 慣れてきたら擬音語にしたり図示したりして、より明確にしていきます。 この時点でそれぞれの個性が見えてきます。同じ場所にいて同じ音を聞いてもみんな書き出す内容が違うのです。 それが終わったらその書き出した全てを眺め、その音から受けた感覚を思い出し、自分にとってのその影響の強さを理解していきます。 そして最終段階になると2人1組のペアになり、片方は手を取りもう片方は目隠しをし、ただただあらゆる環境の中を歩きます。 視界を隔てた状態で見えてくる自分だけの世界があることを身をもって知ることができるのです。
その6-『自分のため、未来のために』
 この勉強をし始めてから、僕の中で明らかに変わったことがあります。 それは、『理由の無い感動』です。
 正に結び目が解けたような感覚、今まで感じてきた、理由も無く湧き上がってくる抑え切れない感動。 それは、大自然を目にした時や偽りの無いやさしさに触れた時、前触れもなくやってくるものです。 その一つ一つを一つの理由で片付けようとしてきた自分がいました。 しかし今ではそれに疑問を感じます。
 きっとその時々はその場所において、例えようのない雰囲気を奏でていて、単に「美しさ」とか「寂しさ」等の言葉では現せないものだと今は思います。 これといって何もできない僕でも、それを感じることができることをありがたいと思い、誇りだとも思っています。 心が体を動かしていきます。 そして僕は、自分を含め全ての人が『感じる』才能を引き出して、もっともっと豊かな人生を送れればと願っています。
その7−『夢』
 そんなこんなで強引にここまで来てしまいましたが、要は自分の世界を広げて認める勇気と、それを受け入れるべき決断力が鍵を握っているのではないかと思います。 将来的な目標をここであげることはできませんが、上乗せされていく、誰かの利益のために作られた偏見や常識に押しつぶされないように、たくさんの人と理解し合い助け合いながら生きていけたらいいなぁと思います。
 どーしようもないですよね本当に・・。 自分勝手な文章にここまで付き合ってくれて本当にありがとうございました。
 少なくとも僕の夢の1つは、『全てにおいて本当の豊かさを追求し、そこに一歩でも近付くために努力をしていける』ということです。 誰だって自分だけの自分を生きたいですよね、きっと。 ではでは(^^;)/{失礼しましたー☆)